場面緘黙(ばめんかんもく)を知っていますか?

鑑定師・谷中ムニラは元・場面緘黙症で、現在、一般のクライアント様方の他に、場面緘黙症の当事者/元当事者の皆様の出生データと手相、姓名から東洋占星術(数種類を一括して呼称しています)を中心に鑑定、診断・予測を含めた場面緘黙症の研究をしています。

元当事者であり、皆様のご協力でニッチな研究をしている立場から、体験談を交えて解説します。

 

当事者の親御様からご依頼があった場合は、以前研究者の先生方から聴講したアドバイスを参考に、緘黙症であることも含めたお子様への接し方や学校への対応などのアドバイスも差し上げています。

西洋医学的なアプローチはせず、一風変わった研究ですが少しずつ場面緘黙症の方のデータが集まり、場面緘黙症の方に100%、あるいはほぼ100%共通する特徴もわかってきました。

 

 場面緘黙症とは

 

この障害における「場面」とは、条件がついたある特定の状況を指し、「緘黙」とは、押し黙る状態の意です。

「場面緘黙症候群(Selective mutism)←英語では選択性緘黙」は子供に多く、話す能力があるのに、ある条件下では話せなくなってしまう、口が開かなくなってしまう状態に陥る症状を言います。

 

テレビ番組やネット等の影響が大きく、令和となった現代では、かつて場面緘黙症だった方、いま現在場面緘黙症児の保護者を中心に、だいぶ知られるようになってきましたが、私が鑑定を始めた2015年時点では、まだウィキペディアにも記載がありませんでした。

 

2010年代前半、地上波テレビ番組「ザ!世界仰天ニュース」で米国の場面緘黙症の小学生の話が半ドラマ半ドキュメンタリー仕立てで紹介されたのが、緘黙症の知名度向上のとっかかりのように思います(実際に私自身もこの番組を見て「この子、私だ!」とこの症状を知ることになりました)。

その後もこの番組で、同一内容の2回目の放送をしていたのを見たことがあります。今はテレビそのものを視聴していないので3回目以降があったかはわかりませんが、やはり2010年代にNHKの教育系番組などでも特集を組まれ、その後ネットや紙媒体の記事がちょこちょこ出てきたので、影響は大きかったと思います。

今や現役の幼稚園、小学校の先生なら、ADHDとならび基礎知識をもつのは必須でしょう。

 

場面緘黙症の具体的な症状としては、幼児から10代くらいまでの子が、家では家族などと普通におしゃべりするのに、幼稚園や学校ではしゃべるどころか返事をするのが精いっぱい、クラスで発表なんてとてもできないか、渋々やらされても緊張を通り越して死ぬ思いで寿命が縮むような感覚、が典型的だと思います。

 

クラス、あるいは学校に一人くらい、そんな「おとなしい」子がいたでしょう。

昭和の昔は、そういう子たちは、おとなしい、シャイ、人見知りするなど、性格によるものとされてきましたが、現代の研究者たちの間では、一種の障害であると結論されています。

日本では少なくとも70年代、筑波大学には場面緘黙症の研究室がありました。

 

上のイメージ写真は、現実の大人の手が子供の口を塞いでいますが、緘黙の症状発現時は、自分の意思で口を閉ざすのではなく、まさにこの写真イメージのように、その時の空氣が金縛りのごとく、自分に言葉を出させないようにしている感覚です。

その時その時、対峙している人の瞬間的な表情やふとした言葉から、威圧感だったり、悪い意味のお節介だったり、あるいは奥に潜む意地悪を感じとってしまい(防衛しすぎて曲解してしまうこともあります)、自分が言葉を発する前に疲れて、たった一言声を出すのも諦めてしまうこともあります。

 

 

 場面緘黙=障害なのか

 

場面緘黙症を(発達)障害と分類するには、否定的な見解もあります。

成長するにつれて症状は緩和、消失していくケースが多数派という事実と、元当事者である私の主観では障害と言うには重く、個性というには軽い。両者の中間くらいの現象と認識しています。

 

しかし、一度発症すると消失(したように見える)までの期間が長いことと、西洋医学的な立場からは、一種の障害とされている事実、何より実際に社会生活、対人関係に支障を来しているわけです。

以上をふまえると、消失していけば個性の一つとして捉えることはできるけど、症状が数十年続いていたり、重症のまま就労する年齢を迎えてなお緩和しない方々は、障害であると言わざるを得ないでしょう。

 

 

緘黙の症状は、本人が喋りたくないから喋らないのではなく、「恐怖と緊張」によって喋りたくても言葉を出せない状態なのです。

ここが、ただの「シャイ」とは異なるところだと思います。

場面緘黙で見た目弱者だった子供時代の私は、大人から子供から、格好のいじめの標的にされたものです(時には親族からも)。

いま思えば私の場合、当時家が周囲よりちょっとだけ裕福だったので妬みも入っていたようで、見るからに先生が率先していじめていた時期もありました。先生がそんなざまでは、単純な子供が調子に乗るのは目に見えています。

 

学校の授業などで、本当は答えが解っているのに、手を挙げるという行為が「見られて怖い」「目立って極度に恥ずかしい」感情につながって挙手できないのはあるあるで、周囲から「あの子は理解できていない」「こんなこともわからない」と単純に誤解されてしまうケースは多いと思います。

 

私が小学生だったある日、出張中の担任の代わりに若い先生が受け持ちにきました。

その先生が給食のデザートを児童の一人に譲るのをわざわざクイズ形式の争奪戦にして、最初は全員起立、選択式のクイズに正解すると立ち続け、最後まで残った人がデザートゲット、不正解した子は着席していくという遊びをふっかけられたことがあります。

デザートが欲しいわけではなかったですが「欲しい人は立って」と先生が言うと、全員嬉々として立ちあがりました。

授業とは逆に座っている自分が目立ってしまうので、しようがなくクイズに参加すると、簡単な問題ばかりでどんどん正解し、周りの子はどんどん座っていくので、こっちはどんどん緊張する。それで途中、わざと間違えて座れてホッとした、なんてことがありました。

この時は高学年で緘黙の症状は消失し始めていて、クラスメートとは普通に話せるようになっていたのですが、いかんせん1対全体、1対多数の図式にされると、圧力のような空氣感にいじめの記憶もよみがえり、緊張と恐怖が戻ってきてしまいます。

鑑定したかつての当事者の方の中には、1対複数、多数は今でも苦手ですとおっしゃる方もいらっしゃいました。私も、つい先年まで1対多数は全く平氣とは言えませんでした。

また別の方は、小学生の時緘黙症で、いまは人と話すのは全然平氣だけど、お子様の学校行事などで教室に入るのは、当時を思い出すので怖くて嫌だそうです。

大人になり緘黙の症状が消えても、心の傷は残りやすいです。

教室という場所や映像、言葉など、当時傷を受けたのを想起させるモノ、コト、あるいは人に触れると、古傷が疼くのでしょう。

 

ひどい緘黙症の場合、休み時間に立ち上がるという行為、トイレに行くという行為さえ怖いのです。

本当は独創的な美術のセンスがあるのに、もし表現したら、周囲からからかわれるかもしれない、何か因縁をつけられるかもしれないと恐怖の想像がふくらんで表現することをやめたり、絵などの自由課題で本当はオリジナルで描きたいものがあるのに、市販の文房具の図柄をコピーして終わらせたり。自分を守るために、やむを得ずもったいない行動をしてきた方も多いと思います。

知能的には問題がないからこそ、周囲の抑圧から守るために自分で自分を抑圧するようになったり、嬉しそうなふりなど演技をするようになるケースもあります。

 

 対他人だけに発症するとは限らない

 

この障害の厄介なところは、時に血縁である家族や親戚など、慣れ親しんでいるはずの人に対してもスイッチが入ってしまうことです。

 

ある子供に対して、自分から挨拶しない、返事をしないからと、カチンとくるのをちょっとだけこらえてください。その子は緘黙症かもしれません。

反抗期や機嫌の悪さなどで、喋れるのにあえて喋らないのとは全く違います。

本人は普段緘黙している時間が他者より長いだけに、人を観察する力や本性を察知する力に長けている方は多いです。

慣れているはずのその人に返事や挨拶をしない(できない)時は、その人の怒り、不機嫌さが表情に出ている時、冗談と称する意地悪や悪氣なく傷つける言葉に対して、普通の子供より敏感に反応している場合があります。

また、学校で休み時間に友達何人かと仲良くお喋りしていても、教室が発表の場などに変わり、その何人かの友達が一聴衆になった途端、声が小さくなったり出にくくなったり、深刻なケースでは「友達が攻める側に変わった」ような、いらん錯覚に陥ったりします。

 

おとなしいから、トロいから、遠慮しすぎるから、何を考えているかわからないから、ハキハキした子にさせようと、ただでさえ喋るのもおそろしいのに学級委員などの目立つポジションに無理やりさせられたケースも多いと思います。

場面緘黙が世の中に知られてきた今どきの教室ではわかりませんが、少なくとも昭和時代までは、そういう「矯正」を良かれと思ってやってきた人は大人も子供も多かったと思います。

子供の私から、知的障害と混同してないか(怒)?と言動を疑われる人もいました。

 

学校(または特定の場)に行くたび、空氣から恐怖と緊張、いじめによる更なる恐怖と緊張だから、疲れます。

家(あるいは自分が自分でいられる場所)に帰ると、恐怖と緊張が解けます。

解けたら反動で弾けたくなり、堰を切ったように喋ったり笑ったりします。そうやって緊張と緩和のバランスをとるのです。

緘黙は幼少時ほど重症でしたが、多少の問題がありながらも、そうやって精神のバランスがとれる家庭だったことと、自分に興味がないことについてはなかなかのトリ頭だったこと(これも忘れるという行為でバランスをとっていたのだと思います)、後述しますが家族や学校関係者じゃないところで自分を認めてくれた方々がいたことで、私のケースはよい方だったと思います。

 

 

 緘黙症の人に対してしてはならないこと

 

 ・緘黙を責める、叱る、喋ることを強制する→逆効果パワーアップになります。

 

「家では喋ってるんだから、学校でも同じように喋りなさい」

そんなことを言われた当事者や、当事者に言ってしまった方は多いと思います。

 

「あんた〈おし〉なの?」「急に口がきけなくなったの?」「馬鹿みたいに黙って突っ立ってないで何か言いなさいよ」

私はこれらの言葉を実の母親から鬼の形相で大声で罵られました。

慣れているはずの家族に対しても症状が出ることがあるのは先述しましたが、生まれてからずっと一緒に暮らしてきた実母に対しても恐怖と罵倒されたショックで声が出ず、涙も出ません。他人(友達も他人)から言われた悪口よりもズタボロ最上級に傷つきました。

 

少なくとも幼稚園児や小学生に吐くセリフじゃないですが、ましてそれを緘黙症の子供に吐いたらどうなるでしょう。

「心臓をえぐられるような」という表現がありますが、比喩でなく、まさに文字通りの感覚でした。

ちなみにそんな母の手には異常に怒りやすい相が出ており、50代の終わりで若年性アルツハイマーを発症しています。

そして私のような緘黙症に加えて親との関係に問題ありな方を鑑定すると、だいたい親下から遠ーく離れて吉と出ていたりします。

 

「あんた、おはようも言えないの?」

これは母の姉妹から、鬼手前の形相でにらまれながら、きつい調子で言われました。

夏休みの叔父宅で、昨日までいとこたちと一緒に叔母ー姪の関係以上に仲良くおしゃべりしたり、ごはんをご馳走になったり、楽しく過ごした翌朝、居間のドアを開けると、家族親戚はそれぞれテレビを見たり、話をしたり好きにしている。叔母さんは黙々と朝食の支度をしている。

 

皆が食卓で着席していて目線がこっちにきたとか、教室のような状況ではなかったですが、すぐ顔に出る叔母さんの眉間にしわが寄って、口がへの字になっているのを見て、「1対複数こわいスイッチ」が入りました。しかも相手は大人です。

何秒か経って、上のセリフが吐かれました。目下からすぐに挨拶をしろということと、私とは血のつながりがない叔父の手前もあり、厳しく「しつけ」たのでしょう。

 

その時は、中学生になるかならないかだったと記憶していますが、自分としては、いつものパターン・恐怖と緊張にびっくりも入ってその場で固体化、ごめんなさいも言えませんでした。

ここからの記憶はあまりないのですが、母が割って入ってきて自分を嗜め、後で叔父叔母に謝ったと思います。

ちなみにこの叔母は、コミュニケーションのつもり=冗談と称してこまめに悪口を言う反面、すべき時に挨拶ができるとは言い難い人でした。緘黙症の方には最悪の相性です。

学生時代まで冗談口調の悪口を言われ続けながらも、とてもお世話になったのは事実ですが、いまは実質的に絶縁しています。

 

お世話になったから、目上の人だから、言うべきことを言ってはいけないというルールはありません。

緘黙症ご本人様も、緘黙症のお子様をもつご家族様も、「なんとなくの空気」や「惰性」、「面倒を避けるための面倒」になっていないか、氣をつけてください。

親戚だからと嫌々なあなあで付き合いを続けていると、我慢している方が病気になります。

いい人に見られたい人ほどそうなります。

緘黙症に限った話ではありませんが、付き合っていると明らかに嫌な気分にさせられる人、症状が悪化するような人とは思い切って縁を切ってみると、意外に何も影響がない。早くからこうすればよかったと拍子抜けすることさえあります。

 

私はおしゃべりな年長の女性は今でも苦手ですが、緘黙症の方、かつて緘黙症で、同様の特性がある方はとても多いです。

 

 母にしてみれば、家ではうるさいくらい喋る時もあるのに、外では別人になっている我が子の姿が歯痒いのと、自分は外面がよくお喋り好きなのに、その子供が喋らないで学校に迷惑をかけている(と思っていた)のが耐えられなかったのでしょう。

しかし、話しなさい、言いなさい、と言われてできるなら、とっっっくにやっているのです。

 

 

 ・笑う、みんなの前でネタにする論外。その人の性格によっては自分を責め出し、自傷、自殺の心配も。

 

親御様としては、緘黙症のお子様が家では普通におしゃべりしていたり、やんちゃだったり、ユニークな趣味があったり、我が子の本来の姿を知って欲しいために、先生やお友達、クラスの子たちに様子を伝えたい、また実際に伝えたことがある方もいらっしゃると思います。

そこで、決して本人が外部(友達も外部)に知られたら嫌がるようなこと→きょうだいげんか、芸人やTVCMのモノマネ・・など、教室での自分と極端に違う自分の様子まで伝えるのは、伝える相手を見極めてから話すのが無難です。

 

冒頭で紹介した「ザ!世界仰天ニュース」で、アメリカ人である緘黙症女児の母親と、女児の小学校の担任教師が相談し、本人に秘密でカメラを回して家での陽氣で活発な様子を撮影し、これまた本人の了承なしに突如そのビデオを教室で公開、クラスみんなが女児の快活な姿に驚き、これをきっかけに本人はクラスに溶け込んで会話もできるようになり、ハッピーエンドという半ドキュメンタリーが放映されました。

 

このサプライズについては、緘黙症情報サイト「かんもくネット」https://www.kanmoku.org/(←オススメです)でも注意喚起していましたが、

たまたまうまくいったケースに過ぎません。

かえってからかわれたりいじめられたりなど、うまくいかなかった場合は尚のこと、本人の了承なしに素の姿を晒されるのは、目立つのが何より恐怖な緘黙症の子にとっては裸の画像をさらされているようなもので、危険すぎます。

私もおしゃべりな母親が家での様子を尾ひれをつけて友人たちに話したり、私を面白半分にいじめていた先生にまで伝えてしまい(家庭訪問の時と思います)、先生がそれを教室で私のいる前で面白おかしくみんなに話し、みんなの好奇の目と笑い声に傷ついたこともありました。

その子本来の様子を教えて吉と出るか凶と出るかは、伝えられた先生や子供たちの性格によるでしょう。

 

 ・無視

 

目立つのが怖くて支障が出るというなら、あえてその子をいないものとして扱えば、先生側もラクだし、その子も目立たなくていい安心感が生じてwin-winなのでは?という考え方も出てくると思います。

しかしその子は知的には問題ないわけで、授業で一人だけ飛ばされて当てられない、グループ学習に入らなくていい、遠足にこなくていい、身体的に問題がなくても体育しなくていい・・など、配慮が裏返ったらただのいじめです。

鑑定経験上、緘黙症の方は繊細な感覚を持つ方が多いので、やはり逆効果パワーアップで、かえってその子を傷つけることになります。

 

私の両親は二人とも社交家で人から好かれる人物でしたが、私が緘黙で幼稚園や学校で静かな問題児になっていることについては、母親がストレートに怒りをぶつけてくる(叱る2:怒る8)のに対し、父親はことごとくスルーしました。

無視とスルーは似て非なるものですが、自分の子供が問題児になっている現実に向き合うのが嫌なのだろう、スルーすることで問題児ショックをやわらげたいのであろう父親の心境が、子供心になんとなくわかります。そうなると、優しい子ほど絶望や怒りのはけ口はお父さんではなく、自分に向かいます。

 

機械的に「緘黙症の子」と「その子以外の全員」と分けて考えるのではなく、例えばボードや黒板の前に一人だけ出てきて声を発するような、大人でも緊張するようなことはさせない、クラスの、仲間の一員であることを念頭に置きつつ、かつ本人も自覚できるような雰囲氣をつくり、氣があっている子がいたら、折々にさりげなく声をかけるようにしてもらう、書いて表現する勉強を増やす、1対1で会話できるようになってきたら、1対2、3・・と少しずつ喋る相手を増やすなどの取組みから始めるのが無難と思います。

そして是非学校(職場)だけでなく、心理学の専門家や本人と仲の良い学校外の人間にも協力してもらうなど、良い意味で外部を巻き込んで欲しいと思います。

特に世界の教職員の中で日本の先生方は世界一忙しいでしょう。

学校の中だけで解決しようとせず、横にギブアンドテイクを展開していけたら、本当に理想と思います。

 

 

 ・緘黙が緩和、消失後は

 

 ごく普通に接してください。

 

「しゃべるようになったね」と直接、間接に言われて、子供心に社会の仲間に入れたようで嬉しい反面、喋れなかった自分は悪、やっとここまでのレベルに上がってきたかと暗に高いところから言われた氣がして、かえって腹がたったり、傷ついた氣もちにもなりました。もちろん、その方が良かれと思って褒めてくださったつもりなのは、子供でもわかりました。

 

 当事者としては、緘黙症だった時も症状が消失したあとも変わりなく、何事もなかったように接してくれた方々がいちばんありがたく、しみじみ嬉しかったです。

ちなみに私の場合、そんな優しい方々は全員が「本屋のおばさん」「友達のお母さん」などド赤の他人ではないけど、家族でも親戚でも先生でもなく、ごくたまに会うだけの方々でした。

かえってこのようにワンクッションもツークッションも距離を置いた他人のほうが親フィルター、先生・友達フィルターが無くて、たまに会った際、「もー、ムニラちゃんの話聴いてたら面白くて〜」「〇〇の時、ちゃんと自分の意見をこんなふうに述べていたのはムニラちゃんだけだった」と、直接間接に言ってくださったり、親伝いに自分を褒めていただいたのを聞いた時、子供心に

「あー、わかってくれてるー♡」

「親よりも先生よりもよく見てくれてるな」と嬉しかったのをよく憶えています。


場面緘黙(発達障害)と占いの関係

images from: https://astrologywithsourabh.blogspot.com
images from: https://astrologywithsourabh.blogspot.com

さいわいなことに、私は小学4年生だった10歳から徐々に緊張が溶け出し、男女問わず、知っている人知らない人問わず、1対1、1対複数・・とだんだん会話ができるようになっていきました。

 

占術のクラスで勉強していた頃、師匠に自分のホロスコープを検証していただいていた時、私が9歳10ヶ月の時点で、星廻りが大きく変化していたのを発見しました。

緘黙が溶け出した小学4年生の時期と一致しています。

緊張しないで話ができる「とっかかり」の時期は、上記のように覚えているものですが、私から場面緘黙の症状がほぼほぼ無くなったのは、いつなのかははっきり思い出せず、時間をかけて緩やかにフェイドアウトしていったようです。かつて当事者だった方々からの話を合わせても、ほとんどの方がそうだと思います。

 

 

日本では夥しい数の占い本が出版されています。

現存する江戸時代後期のものからから令和のいままで、超初心者かつミーハー向けから、この価格でここまで書いてくださってありがとうございます、と著者に頭を下げたいハイレベルのものまで実にピンキリです。

現代の日本で、について時間と経験を積みながら技術を習得している占い師のレベルは、高いと思います。

しかし残念ながら、世間の評価と本当の占い(あえて本当のと書きました)の本質が乖離しているのが我が日本の現状です。

 

当サイトのトップページに記していますが、基本として占いは「命占」「卜(ぼく)占」「相占」の3種に分けられます。

出生データから解読するのが「命占」で、占星術を指します。

カードや易など、その場その場の瞬間性、偶然性で吉凶を見るのが卜占、相占は、手相や姓名判断など、表面に出ているもので解読していきますが、人相でも名前でも、変えようと思えば変えられますが、出生データは不変なので、占星術で出ている内容は宿命で、絶対に変えられません。

私も師匠方も、占星術は東洋式も西洋式も科学だと認識しています。そして占星術の本場中の本場・英国とインドでは(私が知る限り)占星術=科学の一つとされ、専門の学校もあり、立派な職業の一つとごく当たり前に認識されているそうです。

 

ここが占い、風水、スピリチュアル、ヒーリング、ひいては宗教まで全部一緒くたにされがちな日本とは大きく異なる点でしょう。

 

日本で占い、占い師がいまひとつ胡散くさがられるのは、安易にお金と名誉欲に走る占い師、およびテレビなどの大きなメディアの利害関係が悪い方に一致したことが大きいと思います。

不必要に神秘的なイメージをつくりあげたことや、霊能者と占い師を混同させるような見せ方をしたこと、日本で占いといえば、基本3種の中でエンタテイメント性が高い卜占のイメージを拡げたことなで、占い=その程度のもの、あるいはよくわかんないものと視聴者、読者が知らず知らずのうちに洗脳されてきたのは否めません。

 

脱線が長くなりましたが、多くの日本人には

 

・発達障害→西洋医学で診断するもの→現代的・科学的なイメージ

・占い→非科学的、神秘的なイメージ

 

という感じが、なんとなーくあると思います。

その、なんとなーくのイメージ同士が相反するものだから、なかなか「症状」「障害」「病」を占いで「診断」(単に病になった結果の吉凶を見るのではなく)してみようという発想が出る方は、本当に少数派と思います。

私が2016年に占術で場面緘黙の診断を開始した時は、何年かかって何人来られるかな?そもそも来てくれる人いないかも。と全く期待せずに、しかしせっかく元当事者で、緘黙明けの時期がわかるんだったら、信頼してくれる方に情報を提供したい、安心して欲しいという氣もちだけではじめました。

それが一人、二人・・と少しずつクライアント様が来てくださり、過去緘黙症だった方に偶然お会いして参考になる話を伺えたり、いつの間にか症例も二桁集まりました。

 

そこでインド式の医療占星術も並行して勉強しながらわかってきたのは、緘黙症の方はホロスコープ上全員に共通するある条件があること、ホロスコープだけでなく、名前(姓名判断による)にも因果関係があったケースがあること、親、特に母親との関係性が良いと言えない方が多いこと。

緘黙症あるあるで一時的、あるいは恒久的に喋りが苦手な裏で、勘が鋭い、霊感が強い、書く、描くなどの表現力が高い、記憶力、集中力などが高い、率直・・など、常人より優れている面も大体共通していること。そして何より

 

緘黙症に限らず、およそ世間で「発達障害」「〇〇障害」と言われるものは、症状や原因など、とても一元的にマニュアル化できたり、そうするものではなく、さまざまな要因が合わさって結果として発現するものであり、その程度も内容もさまざまであり、健常と障害の境界もあいまいであること。

 

でした。これは学校や研究機関など、現場で子供たちを見てこられた先生方はよくわかると思います。

 

 少なくとも日本の医療業界では、患者とその家族が安心するのと病院が儲かるので「〇〇障害」という名前を与えて、なあなあのウィンウィンになりがちなことも見聞きしています。もちろん中には銭金以前に、ただ患者の心身をよくしてあげたい一心で診療にあたる医師もたくさんいらっしゃると思います。

私も子供の頃、大学病院で名医に助けていただいたので、現代西洋医学を否定するつもりは毛頭ありません。が、本来は医師が絶対の存在ではなく、医療従事者、教育者、立派な研究機関、私のような変わった研究者も横つながりで助け合うのが理想と思います。

例えば、そこにないはずの物体が見えたり聞こえたりする人を、世間や医師は疲労か薬物か統合失調症による幻覚と疑います。しかし占いで、その人が人には言わないけどバリバリ霊感が強いことが判明したら、それは幻覚ではなく、幽霊が見えている可能性が高く、無駄に薬物を処方されなくて済むかもしれません。

本人や周囲が占断を信用すれば、ですが。

 

 

度々私のケースで恐縮ですが、小学生当時、東日本某県の中小都市に住んでいました。

緘黙が消えはじめてきた小学4年生の頃、通っていた小学校で、学芸会だったかのポスターをお店や公共機関に貼らせてもらうというミッションが下されたことがありました。

当時学校で敬語と謙譲語を分けて使えるような子はまずおらず(田舎なので先生さえ使えない)、3人くらいで勇氣を出してお店に入っても、普段いらんおしゃべりをしている子が尻込みしているので、しようがなく私が「〇〇小学校の者ですけど、ポスター貼らせていただけませんか」と交渉したことがあります。その時は突然にもかかわらず対応してくれたおじさんが、小学生たちが緊張しているのもあり、親切にしてくださったのを覚えています。

 

本人が申告しないだけで、普段喋らない「おとなしい子」が、外ではこんなふうに、さらっと社交しているかもしれません。

学校で緘黙していても、近所の方や、初めて会う方でも優しい性格の方とは普通にお話ししているかもしれません。

こんなエピソードがあっても、緘黙症の人が自分からは身内以外の人には言わないので、まず先生方もクラスの子達も知らないでしょう。

 

緘黙症はじめ発達障害の方に限った話ではないですが、学校の先生方や同じクラスあるいは職場の方たちなど、とある特徴を持つ人と毎日のように接している人ほど、「この人はこんなキャラ」設定を作ってしまいがちです。

上記エピソードのような事実を知っても、その人物を自分が作ったキャラに見えるようにフィルターを通してしか見ていないので、記憶から消してしまうのは、よくあるケースです。

 

私の現在の仕事の一環が「しゃべる」ことですが、そんなこともホロスコープに出ていたりします。

そんな私の現状に、対面鑑定でお話しした当事者のお母様は、とても励まされますとおっしゃってくださいました。

かつて緘黙児で、噺家さんになった方もいらっしゃいます。

このように大部分のケースで、症状は成長と反比例して自然消滅するようですが、大人になってなお苦しんでおられる方も少なからずいらっしゃいます。

 

  緘黙の原因

 

身体的には恐怖、緊張です。

また、場合によっては喋るのが馬鹿らしいと達観している場合や、接する回数が多い相手には、返ってくるセリフを察知して、同じような、あるいはネガティブな会話が繰り返される面倒を回避するために防御策として黙することもあります。

 

私の場合、辿っていくと外的な原因は親、特に母親でしたが、ホロスコープを見るまでもなく判定できるほどの悪影響であり、親戚や、母親の母親も影響していました。

占断的には緘黙となった原因は何か一つではなく、複数が絡み合い、合わさったりして、結果の一つとして緘黙の症状が出ています。

多くの方の場合、大きな要因は「親」(または祖父母)です。

が、これは直接的な原因であり、根本的な原因は前世因縁が少なからずあります。

前世の業(カルマ、負債)を解消するために、親や祖父母が一種の解消役となって敢えて辛い経験をさせてもらっていると考えると、しっくり来ます。

占いでは、前世がどこの国の人間でどんな暮らしをしていたかまでは、わかりません。

しかし前世から持ち越した今世の課題はわかります。

その課題が、ご本人の緘黙解消、カルマ解消にまで太くつながります。

 

 保護者の方は、知るのが怖いかもしれません。

しかし、場面緘黙という言葉を知っていて、勉強されて、我が子が心配でこれを読んでいるような方は、不安がることはありません。

お子様の場面緘黙症で当方に鑑定に来られる親御様方は、診断、相談で占星術に目をつけるという、なかなかユニークなセンスがあるということです。実際に、お子様のためにただ悲観したり怒ったりせず、よく勉強されて、学校にも協力を要請したり、穏便に、黙々と行動されている親御様が多く、頭が下がります。

緘黙症のお子様の鑑定結果を親御様にお伝えすると、「驚きました」「感動しました」とおっしゃっていただき、次は自分も鑑定してくださいと親御様ご自身からご依頼いただくことが多いです。その親御様のホロスコープや相を解読していくと、やっぱり、診断と占いを結ぶセンスのある方が鑑定に来てくださるのだなと興味深く実感しています。

 

私は昨今の行き過ぎた個性重視の教育、社会風潮には反対です。しかし明らかにその人が、個性じゃなくて自分ではどうにもできない現象(症状)で苦しんでいるのを見た時、少なくとも教養がある日本人なら、これは親切かな?これはいじめになるかな?余計な矯正かな?甘やかしかな?・・というのは、なんとなく直感的にわかると思います。

 

そして、学校の現場にいる先生方や子供たちはどうしても近視眼的にお互いを評価しがちで、対緘黙症の子にいたっては「しゃべった」「しゃべらない」の二元論的な見方で終わってしまう子や先生もいるでしょう。

しかし先述したように、どんな人も長所がありますが、緘黙症ならではの長所があります。

是非当事者の方を注意深く見てください。

 

知り合いでも赤の他人でも、私たち学校などからワンクッション置いた周囲の大人は時にあえて巻き込まれて、子供に挨拶が返ってこなくてもさりげなく大人の方から挨拶する、その子の長所や感心することに遭遇したら、率直に、でも大袈裟にしないで褒める。

こんなことだけでも、社会の子供を育てるという意味で、小さな社会貢献になっているんじゃないかと思っています。

 

 

 傷は自分で癒せる

 

いまは自分でも、小学生で敬語と謙譲語をほぼ間違いなく使い分けて、いざと言う時は大人に対応して、、いや、小学生バージョンの私えらいぞ!と思ってますが、実は日常的に丁寧語を使っていた母のおかげであります。

 

どんな人でも、必ず長所があります。

 

親または保護者の言動が傷や重荷となって緘黙症と密接に結びついている方は多いと思います。

現在成人で、現状緘黙症の方、かつてそうだった方は、最初はキツかったその親御様、保護者の方にしてもらって嬉しかったことを思い出してください。

ほめてもらったこと、かけてくれた言葉、連れて行ってくれたところ、買ってもらったもの・・。

ありがとう、その氣もちが湧いてきたら、その方のいいところを探しをしてみてください。

やっているうちに、自分が心穏やかになります。その時間をできる時でよいので、5秒、30秒・・と延ばしていくと、身体の不調も緩和していきます。

余談ですが、身体の不調は、現代の研究では、遺伝的要素よりも口に入れたものが原因をつくっている方が大きいことがわかってきたそうですが、身体に悪いものほど口にしたものがメンタルも左右としていると思います。

親に限らず、全ての難しい関係性の相手に応用できます。

その方々に、わざわざ感謝の氣もちを伝える必要はありません(もちろん、伝えたくなったら素直に伝えてください)。

どんな変化が起こってくるか、ご自身を観察してみてください。


鑑定では

鑑定には、ご本人様の生年月日時刻まで必要です。

 ず命術(占星術3種類)と相術(手相と姓名判断)で出したご本人の基本的な性格性質を出します。

 そしてホロスコープ上の惑星の配置と星廻りと姓名がご本人にどんな影響を、どの程度及ぼしているか?

場面緘黙の症状は消えるのか?消えるならそれはいつ頃なのか?を解説しております。

現代医学的なアプローチはしませんが、医療占星術のテクニックを用いて解読します。

ご希望の方には、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)による体質、氣質診断も可能です(別料金は発生しません)

 

緘黙が明ける(緩和される)予想時期、本質的な原因(星の配置)に加えて、ご本人が早く楽になるように対策や、社会に生かす能力が隠れたままなら、見つけ出すお手伝いをします。

本人の努力と、自分に合う環境に身を置くことで、星廻りよりも少し前倒して「よい時」がやってくることはよくあります。

私の場合、「親、出生地から遠く離れ」「大都会」「◯◯◯」「・・・・すること」で能力を発揮するタイプなので、大学進学時に東京に帰ってきたことで、友人たち、先生方、その他お世話になった方々は、会う人会う人素敵で好人物がほとんどになりました。

 

学校との関係など、現実も見据えながら、出生図からわかるアドバイスを差し上げます。

星による影響を信じられる方や、当サイトを読んでピンときた方、お待ちしております。

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究極的には皆さんが占いに来られなくても、このページの文や当方のブログ記事を読んでお氣もちが楽になったり、問題が解決に向かったりしたら、それはそれで望外の喜びであります。